◯ 世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略 VOL.4
江田島孔明
△ シーパワーの採るべき戦略
http://pathfind.motion.ne.jp/sp-digest.htm
海軍の使用法・その2 「巨大陸軍国への対抗戦略」 から抜粋
海軍の使い方としては、例えば英国史においてそれが見られる。地図の上から見るとドーバー海峡などというものはほんの僅かの幅しかなく、実際人間が泳いで渡れるほどである。
ところがその海峡の制海権と制空権を持っていたがゆえに、たとえ対岸に百万の敵陸軍があってもその僅かの距離を渡らせなかった。つまり貧弱な陸軍しか持たない国が強大な陸軍国に対抗し得たのである。
ネルソン提督によるトラファルガー海戦や第二次大戦のバトルオブブリテンの意味はここにある。ここではギリシャ史を最初の例として、それを見てみよう。
△ ペレポネソス戦争史
ペルシャ戦争が栄光に満ちた戦争であるのとは対照的に、続いて起こったベレポネソス戦争はギリシャ世界のもつ不徳の一切を集めた陰惨で絶望的な戦争であった。これは実に27年間にわたった戦争であり、一応はアテネの敗北で終わるが、事実上勝者はなかったと言った方がより実情に近い。
ペルシャ戦争終結からペレポネソス戦争勃発に至るまでの過程は、第二次大戦後の東西対立の模様とよく似ている。ペルシャ戦争の敗北によって、ペルシャは滅びはしなかったものの国内は支配がゆるんでがたがたになり、またエーゲ海の制海権も失ってギリシャを脅かすことが事実上不可能となった。
このため、戦争中は結束して戦ったアテネとスパルタは共通の敵を失い、次第に角突き合うようになった。それに伴い、これら両雄は他のギリシャ都市国家を自分の陣営に組み入れ、二つの大きな同盟勢力が形成されていった。アテネ側のものがデロス同盟、スパルタ側のものがペレポネソス同盟である。要するに前者がNATO、後者がワルシャワ集約機構なのだが、ちなみにこの場合デロス同盟には冷戦時代のNATOよりも悪玉くさいところがあった。
デロス同盟はもともと、サラミスの海戦で勝利をおさめたアテネ艦隊がエーゲ海からペルシャ海軍を閉め出すために、エーゲ港諸島の都市国家を集めて海上同盟勢力としたことに端を発している。デロス同盟の不幸は、敵であったペルシャ帝国の力が急速に減退したため、本来の目的が失われて次第にアテネの海上支配の道具に堕してしまったことである。 他の都市国家は自前の艦隊を整備するよりアテネ海軍増強のための責納金を出す方が安くつくため、同盟の中でアテネだけが巨人となってしまい、怖いものがなくなったアテネは専横の限りをつくす。同盟のために集めた金を勝手にパルテノン神殿の建造費用に当てたりアテネの財政赤字の補填に流用したり、あげくの果てにその軍事力で脅しをかけ貢納金の増額を迫ったりと、国自体がやくざのような真似を始めてしまった。
当然他の都市国家はこの専横に腹を立て、アテネの支配を脱するため、スパルタを中心にペレポネソス同盟が対抗勢力として形成されていく。
ペルシャという脅威が消え去った以上、ギリシャ世界が二分されていがみ合い、やがて火を吹くのは力学的必然である。なおわれわれは、特に十分な知識を持たずにギリシャ史を見る場合にはとかくアテネにひいきした見方をしてしまう。しかし大義名分という面からこの戦争を見ると、多分に支配者アテネに対する解放戦争という色彩を帯びていたことは事実である。実際もしスパルタ側が筆力のる史家をもっていたならば、そういう主題のもとにこの戦争を記述しただろう。
△ ペリクレスの戦略
開戦直前の雰囲気は以上のようなものであったが、ともあれ力学的には二大勢力の必然的な対決であるとともに、貧弱な陸軍しか持たない海軍国アテネと十分な海軍力をもたない陸軍国スパルタという、全く異なる文明同士の対決としての性格ももっていた。(ただしこのときギリシャ世界が海洋国と陸軍国にきれいに色分けされて二分されたわけではない。例えば海軍国としてのメンタリティをもつ国がアテネの横暴ゆえに一人前の独立した海軍国として生きることを許されない場合、彼らがスパルタを敵よりも味方として見たとしても不思議はない。)
それゆえアテネ側の戦略は、陸軍を十分にもたない海軍国が強大な陸軍力に対していかなる方法で対抗するかという主題を浮き彫りにする格好となっている。
結果から見る限りこの戦争はアテネの敗北で終わったのだから、戦略が間違っていたと考えられがちであるが、実際にはそうではない。実はこれは最良の戦略を最悪の政府と市民が運用した結果であるというのが最も正しい。
この27年におよんだ長い戦争は大体三期に分けられる。しかしアテネ側の基本戦略はペリクレスが戦争前に長い時間をかけて準備しておいたものが事実上全期間にわたって用いられた。それは実際にそれほど優れたものだったのである。
ではそのペリクレスが採用した戦略とはどんなものだったのだろう。それは次のようなものであった。まず強力なスパルタ陸軍との決戦になったらアテネ陸軍には勝ち目がない。それでどうやってアテネを防衛するか。
このためペリクレスはアテネ市街と海岸線および軍港をつなぐ二本の長い城壁を築き、郊外の農地に住む市民を全部城壁の内側に収容するという大胆な方針を考えたのである。スパルタ軍は野戦には強いが攻城戦では必ずしも名手というわけではなく、アテネ軍の実力でもこの城壁に依れば十分に防ぐことができる。
郊外の農地は放棄してしまうから今までのようにそこから食糧を得ることはできないが、港と海岸線は市街とつながっているから、船で外から食糧を搬入することは自由にできるし、城壁の内側では平時と同様に商業を営むこともできる。つまり食糧の補給を黒海方面からの輪入に頼っての長期の大親摸な篭城戦なのである。
こうして陸上では完全な持久体勢を整え、海上では海軍力の絶対的優勢を活かしてスパルタ側のギリシャ沿岸を荒らしていく。これをスパルタが参るまで何年でも続けるのである。冷戦期の封じ込め戦略に通じるシーパワー戦略だ。
これは軍事的に見て最高の戦略であり、ペリクレスが生きていれば実際に勝つことができたろう。しかし、実際の歴史はそのように進展せず、ペルシャと組んだスパルタがアテネを倒し、かつそのスパルタもテーベに倒され、結果としてマケドニアに併呑されていくのだ。
△ シーパワーにとって、戦争はビジネス
イラク戦争は石油資本や戦争請負会社の利益のために行われたとよく言われる。全く持っていまさらとい気がする。重要な点は、シーパワーにとって、そもそも、戦争はビジネスなのだ。英国の植民地戦争の例を以下に見ていく。
英国は、植民地戦争をフランスと戦う上で、イングランド銀行の設立(1694年)により、戦費調達が可能であった。課税によりまかなうには王権が弱く、イギリスの国力が貧弱で、植民地戦争が実質的に金融資本主導の戦争であったことを物語る)。さらにこれに続いて、スペイン王位継承戦争(1701-1713年)や北米での英仏植民地戦争(「アン女王戦争」。1702-1713年)が生じた。これらの戦いにイギリス側は陸海軍ともにフランスを圧倒し、ユトレヒト和約(1713年)により、ニューファウンドランドやハドソン湾を獲得することになった。
「ウォルポールの平和」の後は次のようなものであった。オーストリア王位継承戦争(1740-1748年)が発生した。イギリスはフランスを破り、終戦のためにアーヘン和約が結ばれることになった。
しかし英仏間のヘゲモニーが確立したのは七年戦争(1756-1763年)においてである。オーストリア=フランス対 イギリス=プロイセンの戦いであったが、イギリスはカナダ、インドなどの戦いでフランスを完膚なきまでに撃破した。この戦いでイギリスは、カナダ、インドを支配下に治めたのみならず、ミシシッピ川以東のルイジアナ、フロリダなどを取得した(パリ条約)。このようにして、18世紀中期、アフリカを除く世界の大半でシーパワーとしてのイギリスの優位が固まった。注意すべきは、この時期、イギリスの対外活動、商工業活動は、貿易、金融に従事する金融資本主導であったことである。
イギリスのプロテスタント化により、および、17世紀の二度の革命により王権に勝利し、金融資本に活動のフリーハンドが与えられたことが非常に大きいのである。
逆に言えば王権が弱く、商人、金融資本に頼らなければ、強大な王権を誇るルイ王朝のフランスと張り合えず、世界帝国を形成できなかった。産業革命以前の製造業としては毛織物が挙げられるが、それは地方、農村を基盤として、農民の土地を奪い階級分化を促した。羊が農民を食い殺すといわれたのである。しかし、このシステムはマニュファクチャや問屋制家内工業の域を出ず、イギリスが世界に乗り出すシーパワーとなるには、上述の金融資本による、本国と植民地で進展していった経済発展を、たくみに連結させる三角貿易が必要であった。
これは、王権が行ったことではない。貧弱な王権(弱い規制)にともない金融資本のフリーハンドが実現したことによるのである。
さらに、イギリスの特質として、金融資本と土着の地主貴族(Sirの称号をもつ)の相互交流が認められたことが大きい。ありていにいえば、商人を貴族にしたのである。
△ The Victorian Compromise
ビクトリア朝を特徴付けるこの動き(The Victorian Compromise=ビクトリア朝の妥協と呼ばれる)は近代のイギリス史を語る上で強調しすぎることができないほど重要な点である。別の言い方をすると、商人が政権に入り、商業的見地からcostとprofitを考えて外交政策を決定し、戦争する契機を与えたのである。すなわち、市場獲得のための軍事力行使である。この政策を推し進めたディズレーリ(Disraeli.Benjamin1874年、数次の蔵相をへて、保守党首相。スエズ運河の買収、東インド会社の政府移管を実行。)はその代表である。
△ 担保は大英帝国
イスラエルという名前で分かるとおり、彼はユダヤ系であった。彼は金融資本筆頭のロスチャイルドの代理人であり、スエズ運河を買収するに際して、ロスチャイルドから資金提供を受けたのだが、運河の重要性を理解していた彼がその際に提供した担保はなんと「英国」であったという逸話がある。(ロスチャイルド家の当主ライオネルのところに、フランスのユダヤ人から極秘電報が届きます。エジプトがフランスに対して、国際スエズ運河会社の株式を400万ポンドで買い取るように要請している。フランスは、買取に難色を示している。 との内容でした。ロスチャイルドは、直ぐに古くからの友人ディズレーリに電報を見せます。
内容を確認したディズレーリは、恩人ビクトリア女王のために同社の株を買い取る決心をします。女王の同意を得て、全閣僚の委任状を取り付けることに成功します。
しかし、ここで難問が立ちはだかります。明日までに400万ポンドの現金をそろえないと、契約が成立しないのです。英国議会は、休会中。また、たとえ決議が出来ても、イングランド銀行には、それだけの現金がなかったのです。
ここで契約を逃すと、フランスがイギリスの動きを察知して、巻き返されます。慌てふためいたディズレーリは、再びロスチャイルドの豪邸に向かいます。彼は、ロスチャイルドに切り出します。
「明日までに、400万ポンドの現金を用意して貸していただけないでしょうか?大英帝国が担保です。」)結果は歴史のとおりである。世界史の教科書にはこのシステムは帝国主義と書かれてるが、これこそがシーパワーの真髄なのだ。背景として、この時期、アメリカ、ドイツの工業生産力がイギリスのそれを追い越し、イギリスとして、排他的独占市場を必要としたということがある。イギリスと植民地間の通信を営む事業者が、国営のBritish Telecomではなく、民営のCable & Wirelessであり、日本近代に際して来日したイギリス人が全て商人であったことは、このことを雄弁に物語る。余談ではあるが、フランスはこれ(金融資本との提携)ができず、金融資本を活かせず、逆に言うと王権が強すぎたがために、中世(農業生産力)においては臣下であったイギリスに、近代(商工業力)において敗れたといえる。
かってのカソリックによる国土回復後、金融資本を追放したスペインがそうであったように。世界をめぐる覇権争いでイギリスに敗れたフランスはその後革命をむかえ、ルイ王朝期の一等国からころげ落ちてしまう。ルイ王朝とは、本質的にランドパワーだったのだ。現在のアメリカにおける産軍複合体支配、戦争民営化等は全てこのシーパワーにとって、「戦争はビジネス」という理解を基盤に据えて考えるべきである。問題は、中東戦争は儲からないビジネスだということである。どう考えてもインダス川から地中海、紅海の線で囲まれたエリアを支配できるわけは無いのである。 以上
(Vol.4完)
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