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◯ 世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略 VOL10
 江田島孔明

 今回から数回に渡って、シーパワーの根幹たる、国際金融資本と日本との関係について、述べたい。
 アジア共同体論者は日本は「アジア」の一部だということを前提としているのだが、その前提は根本的に間違っている。はっきり言えば、日本は「アジア」の一国ではなく、13世紀、鎌倉幕府が二度の元寇を跳ね返した時点で大陸や半島「アジア」と政治的には縁(経済的交易関係は残した)を切り、16世紀(戦国時代末期)以来、欧州の国際金融資本主導のシーパワー国の一部に組み込まれていたのだ。その魁が織田信長だ。
 この点が認識できていないから、日本人も外国人も日本はアジア諸国と友好関係を保ち、共同体を築くべきだという的外れな結論を導いたりするのだ。
 この国際金融資本との関係を抜きにして、日本の近代、現代の発展は理解できず、なぜ、日本がシーパワーでなければならないのかも、説明できない。近代史の大きな流れは、この表向きはアングロサクソンと呼ばれる国々で起きた、国際金融資本の「移動」を見極めることで分かる。

△ 国際金融資本
 国際金融資本とは、中世のベニスやジェノバの地中海貿易を支配し、オスマントルコがシルクロードを押さえて東方貿易の果実を得られなくなって後はスペインやポルトガルを駆使し、大西洋貿易に乗り出し、1492年にスペインを追放(異端審問)された後は、オランダやイギリスを支配し帝国主義の時代をもたらし、二度の世界大戦後はアメリカを裏から操った資本家だ。シェイクスピアの「ベニスの商人」はイギリスが彼等の支配に入りつつあることに警鐘を鳴らした作品だ。中世のベニスから現代のアメリカまで、全てのシーパワーの対外政策は「国家」ではなく、国家を支配する「資本」が行ってきたことを見るべきであり、この「資本の移動」こそが、シーパワーにとって、近代の世界史であり、資本主義の真の意味だ。
 この資本主義の成立と、欧州が、ここ400年、世界の覇権を握れるようになった根源的理由である、シルクロードをオスマントルコに押さえられたため、ジェノバ商人がスペインやポルトガルを動かし大航海時代になり、他のユーラシアの文明(主にイスラム)に比べて大西洋に近く、南北アメリカ大陸を発見することによって、ユーラシア大陸と南北アメリカ大陸間の大西洋貿易が活発になり、大陸欧州を含めて、地政学的にシーパワーになったことはコインの両面だ。つまり、大西洋貿易及びインド洋から東南アジアを経由して東アジアとの海上交易ルート確保がシーパワー欧州とランドパワーイスラムの近代を決定的に分けたのだ。海上ルートが発達したことにより、シルクロードはコストやリーチ(領域)の点で、グローバルな通商路としての重要性を失ったのだ。ここに、近代においてシーパワーの欧州がランドパワーのイスラムに優位した理由がある。
 欧州のベクトルはユーラシア大陸ではなく「海」に向いたため、発展できた。戦後の冷戦もこの文脈で考えるべき。
 資本の移動には、前段階でバブルの発生と崩壊(オランダのチューリップ球根事件、イギリスの南海泡沫会社事件、1929年のNY発大恐慌等)が起きている。むしろ、国際金融資本は当該国でバブルを意図的に起こして、底値で買って、当該国へ資本の移動を完了するのだ。そして、国際金融資本は各国の国体破壊に執念を燃やし、戦争や革命によって、王制を打破あるいは傀儡化を図る。第一次世界大戦において、ドイツやロシア、トルコの王制を打倒したことが例だ。しかし、第二次世界大戦において日本の皇室を打倒しようとはしなかった。むしろ、彼らは、昭和天皇には敬意を払っていた。そのことが戦後の対日政策を極めて宥和的にし、戦後の経済復興につながったのだ。何故であろうか。以下に国際金融資本と日本との関わりを16世紀に遡って見てみたい。
 参考として、VOL4「シーパワーにとって、戦争はビジネス」をご一読いただきたい。 http://melten.com/BackNumber.cgi?m=10136&s=3

△ 信長以降
 日本は、律令制度を唐から導入したころから、中国の周辺国という意識をもっていた。しかし、武力征服を受けたことはなく、内政の干渉もなかったため、その意識は社会の上部知識人に限定されていただろう。日本が世界史に登場するのは、ポルトガルとの遭遇からである。この時期以降、島国であったことにより、日本は中国とは明確に一線を画す、欧州シーパワーの一部となったのだ。
 1543年、種子島に漂着したポルトガル商人によりもたらされた鉄砲が30年後には織田信長により集中利用され、戦国時代を収束した。日本史の教科書には、この鉄砲の集中利用(長篠の戦い1575年(天正3年)には三千丁の鉄砲が集中利用された)が信長の覇権を決定づけたような記載がされているが、ここで忘れてはいけないのは、鉄砲そのものは、日本刀の生産技術を応用することで国産が可能であった(砲身の尾栓を塞ぐネジの技術のみが当時の日本になかった)が、火薬の原料たる硝石は国内では産出せず、ポルトガル商人からの輸入に頼ったということである。信長が堺の支配にこだわったのはマカオから堺にもたらされる硝石を独占するためなのである。その決済には、何と日本人が奴隷として、輸出されていたようだ。天正15年(1587年)6月18日、信長の後継者豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。
 「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)ポルトガルが大西洋で行った、黒人奴隷を用いた三角貿易と同じことを日本でもやったのだ。この時期、日本はフィリピンのように植民地になる危険性も存在した。
 <参考> キリシタン宣教師の野望
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog154.html
 当時の大大名たる武田氏や上杉氏は、農業生産力や鉱物資源(佐渡や甲府の金山)を基盤にしたランドパワーであった。それに対抗した信長は商工業の自由化(楽市楽座)や堺の直轄化にみられる南蛮交易の独占といったシーパワー戦略をとり、ポルトガルと結ぶことによって覇権を握ったのだ。要するにランドパワーに対してシーパワー戦略で対抗したその象徴が長篠の戦である。
 この戦いの後、安土に築城する。安土は、琵琶湖の水運を利用して京都へ半日で到達でき、かつ堺にも近く、港の支配を通じて覇権を握るシーパワーの戦略に合致している。さらに、この戦略の延長上に、彼の後継者秀吉による大坂城築城がある。瀬戸内の海運、フィリピンやマカオとの交易にはこの大坂城は戦略拠点になる。要するに、シーパワーの観点から、大坂や堺といったリムランドを支配したのだ。
 信長は、日本史上は異端児の革命家と評価される。しかし、彼を同時期のスペインやポルトガルと比較すれば共通点が見られる。フロイスを始め、イエズス会宣教師が彼の参謀役を果たしていたことは間違いない。
 絶対王政は、1.常備軍、2.官僚制、3.重商主義、などを特徴とするが、これらは、信長が実行したかまたは実行しようとしたことである。すなわち、信長は、
 1.他の戦国大名に先駆けて兵農分離を行い、農閑期以外でも大軍を動員できるようにして、近代的な常備軍を設立した。
 2.家臣を土地から切り離し、安土城下に住まわせ、中央集権的な官僚制を作ろうとした。
 3.楽市楽座により国内産業の育成に力を入れ、堺や大坂といった有望な貿易港を支配することに、熱意を示した。
 このような相似性が見られるのだ。
 1582年に本能寺の変が起き、信長は光秀に暗殺される。しかし、同時期に、織田水軍が大阪湾上で、四国攻めの準備を行っていた点は看過できない。つまり、鉄鋼船を含む織田水軍は将来、フィリピン遠征の危険があると察したスペインが、キリスト教宣教師を使って信長を暗殺する駒として光秀を動かしたという仮説である。
 私はこの説を支持するが確証がないため、仮説としておく。つまり、信長はシーパワーであるスペイン、ポルトガルと結ぶことにより覇権を握ったが、彼らに危険視され消されたのだと。鉄鋼船の保持は、現代で言えば潜水艦発射核ミサイルに相当する。そんなものをもつことを許さなかったのだ。日本が今でも許されないように。
 シーパワーの戦略は勢力均衡を鉄則とする。つまり、強大になりすぎた勢力はかならず、叩くのだ。欧州におけるナポレオンやヒトラーを英国がつぶした例にとるまでもなく。信長の死も彼等の破滅も本質はシーパワーの勢力均衡戦略で説明できる。

△ オランダとの遭遇
 戦国時代の画期を示すものとして、1600年に豊後に漂着したオランダ商船リーフデ号がある。ウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステンが乗っていた。1600年という年は、関ヶ原の戦いで徳川時代を決定した年である。
 この時代、世界史の中では15世紀末にはじまった上述の大航海時代の末期にあたり、ヨーロッパのプロテスタント国家オランダも東洋進出に躍起になっていた。
 オランダという国が正式に公認されたのは1648年だったので、リーフデ号がオランダを出発した1598年という年は、オランダがスペインから独立を宣言した1581年からわずか17年しか経っておらず、まだ独立戦争の最中のことであった。日本には1543年に欧州勢力としてポルトガル商人が種子島に漂着して火縄銃を伝達しているから、カソリック国とは面識があったわけであるが、オランダ船により、プロテスタント国との接点ができたわけである。時の権力者、豊臣政権の大老筆頭徳川家康は、漂着したオランダ船に多大な興味を示した。船に載まれていた武器が、一番の目当てだった。リーフデ号が運んできた武器は全て没収され、ヤン・ヨーステンとウイリアム・アダムスは大坂、次いで江戸に上るよう命じられた。ウィリアム アダムスは三浦按針の日本名を与えられ、また江戸橋に邸宅、相模国三浦郡逸見村に220石あるいは250石の領地を与えられ家康の外交顧問として活躍した。彼の業績としては、日蘭貿易のための画策及びイギリス東インド会社へ日英貿易の利を説き平戸のイギリス商館開設の窓口となったことや航海士としての技術を生かした洋式帆船建造などがあげられる。ヤン・ヨーステンは家康に仕え外交の諮問に応じる立場として活躍、オランダの日本貿易独占に尽力。東京中央区「八重洲」の地名は、「ヤン・ヨーステン」が転訛したもの。

△ 関が原の真の意味
 この中で私が注目するのはオランダ商船からもたらされた武器、長射程艦載砲である。当時の日本にはなかったであろう、この武器が、家康に天下取りの意欲をいだかせ、関が原合戦へと繋がったとは言えないだろうか。わずか、関が原の半年前のことである。この因果関係を証明する術はない。しかし、状況証拠を考えると、この時期のオランダとの接触が家康に天下を取らせ、褒美がポルトガル、スペインを排除してオランダへの独占的交易権の付与であったのではないか。
 背景として、1492年の国土回復により、異端審問が行われ、ユダヤ系の国際金融資本はカソリックのスペインを追放され、宗教的自由があったオランダに移住しており、1588年のアルマダ海戦により、スペイン無敵艦隊が英欄により殲滅され、覇権は既に新教国に移っていたことを家康が知らされていたことも十分考えられる。すなわち、豊臣VS徳川+新教国の戦争だ。
 証明はできないが、辻褄はあっていると考えるがいかがであろうか。もしこのことが証明されたらどうなるか。日本史は、このとき以降独立した歴史ではなく、欧州勢力によって支配者が決められるということである。間接的な意味での植民地である。陰謀史観との謗りを覚悟で言えば、鎖国(この用語も適切ではない。選択的開国というのが正しい)の真の意味とはオランダと徳川家で談合して徳川家による日本支配とオランダの交易を相互承認し、他の勢力(伊達、島津、毛利、前田等の外様大名)がカソリックのスペイン、ポルトガルと結びつかないようにするための規制、枠組みであったのではないか。島原の乱(1637年のキリシタン一揆。天草四郎時貞(当時16才)を総大将にし、原城(南有馬町)に総勢3万7千人で90日間たてこもった。1637年12月 総大将天草(益田)四郎時貞の下、キリシタン信仰を団結のよりどころに島原天草の農民三万七千人の一揆軍が原城にたてこもり幕府軍十二万五千人と戦いを繰り広げた。翌年の二月二十八日、一揆軍は総攻撃を受け、老若男女問わず皆殺しとなった。日本史上もっとも悲惨な事件とされる。)で幕府がカソリックに恐怖をいだいたことが最大の契機となった。
 このように考えると、カソリック勢力と接触し、支倉常長(慶長18年9月15日(1613年10月28日)仙台藩主,伊達政宗の命を受け、メキシコ、スペイン、イタリア、そしてバチカンと旅した)け、メキシコ、スペイン、イタリア、そしてバチカンと旅した)を派遣した伊達正宗は徳川+オランダ連合にカソリックと組むことにより対抗しようとしたのではないか。
 <参考> なぜオランダは「大英帝国」になり損ねたのか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog115.html

△ 戦国時代の真の意味
 これは、すなわち、この戦国期というのは日本史が、欧州から影響を受け、ありていにいえば、シーパワーたる欧州勢力との提携が国内政治の覇者を決めるようになった時期なのである。これをエージェントというべきかどうか意見はわかれると思う。江戸時代に入ると欧州シーパワーの中でイギリス、オランダというプロテスタント諸国にのみ交易を許し、スペイン、ポルトガルは排除した。イギリスはアダムスや初代館長コックスの賢明な営業努力にもかかわらず、オランダとの競争に敗れ、10年で平戸を撤退した。これは幕府が排除したのではなく、単に営業的判断であったろう。幕府はカソリックを南蛮人、プロテスタントを紅毛人と呼んで明確に区別していたのである。オランダとの交易の重要な点として、オランダ船が長崎に入港すると、まず風説書が提出されたことが挙げられる。これにはヨーロッパからアジアの政治情勢などが記載されており、幕府の貴重な外交上の情報源として重用視されていた。
 そして、現在の東京都中央区は運河と江戸時代初期の埋めたて地で構成されるが、その造成にオランダの知識、技術があったのではなかろうか。 江戸期以降、中央区は日本のアムステルダムであり、本家アムステルダム、ニューアムステルダム(ニューヨーク)そして中央区は全てオランダシーパワーの紡いだ線で繋がっていたのである。

△ 日本とシーパワーを繋ぐ線
 これらの都市に金融センタが存在することが何よりの証拠である。更に、近世の貨幣制度を確立したのは家康である。金・銀・銅の三貨制度といわれている仕組みである。この三貨は家康以前にも存在していた。しかし、使用法は異なっていた。まず金貨は主として贈答や褒美用のものとして使われていた。軍功を立てた家臣にご褒美としてつかわすといったものである。これに対して家康が慶長6年(1601年)に発行した金貨、すなわち慶長小判は、実際に流通の用に供するために鋳造され、合わせて四分の一の価値をもつ一分判が発行された。家康はここに従来の使用法を改め、金貨である小判を中心とした三貨制度を実施した。金貨を貨幣制度の中心に据えることもヤン・ヨーステンの発案ではなかろうか。更に、生糸輸入の超過であり、金銀の海外流出が止まらず、必要量を補うため実施したのが貨幣改鋳である。すなわち、金・銀の品位を下げて同じ量の金・銀量からより多くの単位の金・銀貨を作ろうというものである。これは綱吉の時代の勘定奉行・荻原重秀によって始められ、何度か見直しはあったが、江戸時代を通じて財政危機を乗り越える苦肉の策として何度も実施された。
 重秀の発行した元禄小判の例では、慶長小判に対し金の含有量が三分の二に減ってしまった。これを改めようとしたのが儒学者(儒教はいうまでもないがランドパワーの教えである)新井白石である。白石は失われた貨幣への信用を回復すべく、金銀の比率を「慶長小判」、つまり幕府創設当初に戻した。さらに金銀の流出を防ぐために長崎貿易の制限を行った。(正徳の治)
 背景として、オランダシーパワーは長崎を通じ、当時の日本の経済システムにも影響を与えていた。そして、このオランダによって紡がれた日本とシーパワーを結ぶ線は、イギリスとオランダの闘争を通じて、イギリスに引き継がれるのである。

△ 明治維新
 日本において、江戸時代中期頃から日本近海に外国船が頻繁に出没するようになった。この時期ランドパワーの徳川政権下で、シーパワーの脅威を最初に説いたのが、仙台藩の学者林子平の書いた「海国兵談」(寛政3年(1791年)刊行)である。「江戸の日本橋より唐・オランダまで境なしの水路なり」。松平定信によって人心を惑わせるとのことで発禁となったことがランドパワーの世界観の閉鎖性を物語っており、興味深い。鎌倉期の日蓮による立正安国論も同じように蒙古の脅威を説いたものであるが、幕府によって弾圧された。
 このような流れの中で、欧州シーパワー諸国の最終勝利者たるイギリスは、インド、シンガポール、香港と地歩を伸ばし、いよいよ日本に接触してくる。
 明治維新を断行した薩摩長州であるが、彼らは実は江戸時代からシーパワーであったことはあまり語られていない。江戸幕府とは、外交顧問たるオランダの指導により、東南アジア進出が南蛮国(スペイン、ポルトガル)との対立を招くという観点から、海外進出を諦め、国内の土地配と交易の制限(鎖国)および商業取締りをエトスとしたランドパワーであった。大陸諸国のランドパワーと違うのは薩摩長州といった反対勢力(外様大名)を体制内に残したことである。薩摩長州は関が原以降仮想敵とされ長州藩などは120万石を大幅に削られ36万石となったが、実際の財政は石高以上に交易により潤っており、幕末には実質100万石を達成していた。薩摩藩にいたっては幕府の目を盗み琉球や種子島との貿易により潤っていた。
 反面幕府は直接支配する直轄地(天領)は約400万石で、旗本領を合わせると約700万石となり、全国の石高の約4分の1を有していたが、実際には農民は畑作(商品作物)の栽培にいそしみ、米穀の収入は激減していて屋台骨は大きく揺らいでいた。これが倒幕を可能ならしめた一つの大きな理由なのである。このような時代背景で、イギリスは薩摩長州と接触した。その契機は生麦事件さらに、元冶元年(1864年)、長州藩は、8月4日、英仏欄米の四カ国艦隊に砲撃等の交戦を通じ、薩摩長州藩士の士気の高さに驚き、他の植民地にない知性と礼節を弁えた日本の武士の存在を知り、パートナーとするに足る存在であることを認めたのである

△ 国際金融資本家グラバー
 この後、薩長はイギリスの支援を受け、薩英戦争後に攻められた後の軍制改革で、最新のミニエー銃を一万挺購入した。火縄銃しかもっていなかった幕府軍に対して、火力で圧倒的優位に立ったのである。
 薩長に武器を売ったのは、長崎グラバー邸で有名なグラバーだ。1859年、長崎開港直後、21歳で来日し、グラバー商会を設立。お茶や鉱山設備も扱ったが、武器や船が主だった。1866年イギリス政府は、エンフィールド銃(イギリス風改良ミニエー)前装銃を、後装銃に改造し、エンフィールド・スナイドル銃と呼んだ。戊辰戦争でも、西軍は江戸城占拠後、イギリス製ミニエー銃を、スナイドル銃に改造した。この銃は、西南の役の頃も、明治政府軍の標準銃として使われている。
 坂本竜馬はグラバーの使用人として薩長に会ったのだ。薩長同盟の斡旋はグラバー、実質的には英国金融資本によって成されたとみるべきだ。船中八策はグラバーの作と見るべきだ。
 幕府はナポレオン三世に率いられたフランスの支援を受け、内戦状態に陥る。まさしく、シーパワー連合VSランドパワー連合の構図である。アメリカは国内問題(南北戦争)を抱え、日本への関与どころではなくなってしまう。 結果はイギリス金融資本に支援を受けた薩長の勝利であった。ここで、私は幕府が自壊したのは、フランスが普仏戦争(1870年〜1871年プロイセンとフランス間で行なわれた戦争スペイン国王選出問題をめぐる両国間の紛争を契機として開戦プロイセン側が圧倒的に優勢でナポレオン3世はセダンで包囲され、1870年9月2日同地で降伏 )を抱え、日本への関与ができる余裕がなくなったことが大きいと考える。イギリスとフランスが談合し、日本はイギリスへまかせるというような密約、取引があったと思うのは考えすぎであろうか。(VOL11へ続く)
 <参考> 国際派日本人養成講座
(1)ランドパワーとシーパワー
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog314.html
(2)ベネツィア 人工島の上に作られた自由と平等の共同体。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog104.html
(3)戦争の海の近代世界システム
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog090.html
(4)悲しいメキシコ人
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog003.htm
 <追記>
 前号で指摘した中国の構造的問題、矛盾と史上最大のバブル崩壊は、以下の記事を見ても明白であることがわかる。日本の中国事大主義達者は、いいかげん気づくべきだ。中国の経済成長なぞ砂上の楼閣、蜃気楼に過ぎず、今年からその化けの皮がはがれだすということを。
△ EU、中国を市場経済国と認めず 国家介入が理由 (共同6月29日)
 「欧州連合(EU)欧州委員会は28日、価格や費用の設定に対する国家の介入が依然強く、現時点では中国を「市場経済国」とは認定できないと発表した。
 中国は米国、EUなどの主要貿易相手から市場経済国と認められず、中国製品へのダンピング(不当廉売)調査で不利な扱いを受けているとして、昨年6月にEUに認定を申請していた。
 欧州委は、結論は中国経済の発展状況を全体的に判断したものではないとした上で「市場経済国の認定の有無はダンピング調査などに直接影響しない」と述べた。ただ、認定されれば中国製品に対する関税障壁が緩和されるなどの利点があるといわれる。
 欧州委は、今後中国が「市場経済国」に認定される条件として(1)企業への国家介入の緩和(2)企業統治(コーポレートガバナンス)の向上(3)倒産や知的所有権に関する法整備(4)市場規則に基づく金融部門の導入−などを挙げた。
 これまでにニュージーランド、シンガポール、マレーシアなどが中国を市場経済国と認定している。」
△ 広州ホンダ「アコード」を全面値下げ「人民網日本語版」2004年6月28日
 「北京亜運村自動車交易市場をはじめとする数カ所の自動車市場で27日、広州ホンダの「アコード」(中国名「雅閣」)が全面的に値下げされた。2カ月前には予約待ちをしないでアコードの現物を購入するには、数万元の上乗せが必要だった。現在、北京の消費者向けに販売されている広州ホンダの数車種は、すぐに現物が手に入るだけでなく、販売ディーラーが値下げによる販売促進活動を展開している。下げ幅が最も大きいのはアコード3.0リットル車で、1万2千元の値下げになる。業界関係者は「ディーラーが長らく供給不足だったアコードの販促活動に踏み切ったことは、国内自動車市場でこれまで行われてきた価格体系の最後の防衛ラインが崩れたことを意味する」と述べる。
 同日、広州ホンダ総経理弁公室の温玉貞氏は、今回の値下げは同社の価格戦略調整によるものではないと指摘した上で、「わが社は値下げ価格に対して一切の責任を負わない。値下げされた車がどこからどんなルートでやってきたかわからないからだ」と述べた。また温氏は、同社はいかなる値下げも行わないと強調した。
 亜運村自動車市場のあるディーラーは広州ホンダ車の大幅値下げについて、「市場にモノが出回らなければ値上げや価格上乗せ販売になる。モノが十分に供給されれば値下げ販売になる」と説明する。
 広州ホンダ銷售科の責任者は同日、「計画では、わが社の生産台数は7月1日以降、1千台に到達する。販売台数が大幅に増えないと、生産力の向上に伴って、在庫の発生が避けられなくなる」と述べた。
 ある業界関係者は「広州ホンダの大規模な生産力拡大路線が、最近の自動車市場の低迷と競合メーカーの大幅な値下げに直面させられた。これが今回、ディーラーが値下げに踏み切った原因だ」と指摘し、「広州ホンダも他のメーカーと同様、在庫圧力をディーラーに転嫁させている。ディーラーは在庫圧力を低下させるためには、値下げによる投げ売りをするしかない」と説明する。
 中国汽車咨詢総公司のアナリストは「広州ホンダの価格は国内自動車市場の価格体系の最後の防衛ラインだった。広州ホンダは国内自動車市場の価格体系における模範的企業で、その値下げは現行の価格体系がまもなく崩壊することを意味する。市場全体で一斉に値下げが行われる可能性がある」と述べる。また同アナリストは「今回の値下げの過程では、多くのブランドで値下げが発表されると、ディーラーが値下げ価格からさらに値引きするということを行った。近年の家電製品や情報通信(IT)製品と同様に、最近の自動車市場の低迷が自動車価格を限界まで引き下げ、業界の再編を促す可能性がある」と予測する。(編集KS)
△ 生産過剰に直面する中国の自動車産業―見直しを迫られる日本メーカーの進出計画―
 6月1日に、「2010年までに中国を世界の主要な自動車生産国に引き上げ、国民経済の支柱となる産業に育てる」という目標を掲げた「自動車産業発展政策」が10年ぶりに発表された。それに続いて、6月10-16日に中国で増えている高所得者に照準に合わせて日米欧各社が最新の高級車を競って展示する「北京国際モーターショー」が盛大に行われた。しかし、生産側のこのような明るい見通しとは対照的に、生産過剰の黄信号はすでに点滅している。日本メーカーの対中進出が本格化しているが、現在は果たしてベストなタイミングと言えるか、疑問が残る。
http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/ssqs/040630ssqs.htm
 21世紀は環境の時代、以下の衛星写真が日中の環境的観点からの未来を示唆する。 中国北部の衛星写真。 環境破壊の結果、荒れ地としか言いようがない。
http://rapidfire.sci.gsfc.nasa.gov/gallery/?2004040-0209/China.A2004040.0245.500m.jpg
 日本列島、緑地が残っている。
http://rapidfire.sci.gsfc.nasa.gov/gallery/?2004112-0421/Japan.A2004112.0155.500m.jpg
 中国人全体の後進性は、その民度の低さと、ビルを建てて、高速道路を作り、原発を作り、エアコン付けて、新幹線を導入し、Macのハンバーガーを食べて表面をつくろえば先進各国と遜色ないレベルにあると勘違いしていることだ。大事なのはそれらを自前で作るまでの技術・知識の蓄積(ソフト)とそれらを使いこなすシステムが社会そのものに内包されているって事が先進国が先進国である所以なのだが。借りた金でそれらの見てくれを導入し政治的に分捕るといった唯一中国人の得意とするものはあるにせよ、それだけでは真に自分のモノになったとは云えまい。
 多少の民族資本や人材が蓄積されたからといってまだまだ外国頼みの開発。近代社会のメンバーとしての最低限の装いを懸命に整備している段階だ。まるで小学校入学に備えてランドセルや筆箱、上履きを新調するといったような・・・。国土スケールをそのまま己の器量・資質になぞらえたがる中国人には内部崩壊以外の未来はない。オリンピックは生活保護を受けている世帯がヨットやフェラーリを買うようなもの。このままでは開催すら不可能になる可能性がある。以上
(江田島孔明、Vol.10)



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