◯ 世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略 VOL56
 江田島孔明

 先週、取材を兼ね、関西(京都、大阪、神戸)を訪問した。関西から見た、シーパワーとしての日本の未来を考えてみたい。

 まず、シーパワーとは、「政治と経済の分離」あるいは、「資本の優位」を原則とする。これはイギリス(ウエストミンスターとシティ)アメリカ(ワシントンとニューヨーク)オーストラリア(キャンベラとシドニー)などを見ればわかるだろう。日本においても、江戸時代は原則として政治は江戸、経済は大阪をそれぞれ中心としており、政経は分離されていた。
 江戸時代、「天下の台所」と呼ばれた大阪を地政学的に考えると、瀬戸内に向かって開けた港をもち、瀬戸内沿岸や日本海、あるいは大陸諸国との交易には東京よりもはるかに有利な条件を持っていることに気づく。シーパワーとしての大阪を考えると、末尾に紹介した伊勢正臣氏の「日本人のDNAには過去400年以上にわたる市場経済システムの経験が組み込まれている。」にみられるように、資本主義の成立は世界で最初とも言える様だ。

 東日本が東京一極集中であり、東京以外には経済圏と呼べるものはないのに対して、名古屋を含めると、西日本は九州、中国、関西、名古屋といった大きな経済圏が相互に連携しているという意味で、シーパワー的なのだ。
 このことは、日本史を概観しても、東日本に成立した政権は鎌倉幕府、江戸幕府とも、農業主体のランドパワーであり、西日本に成立した政権は、平家、足利幕府、織豊政権とも、全て、交易を重視するシーパワーだということでもわかる。明治維新を断行した薩摩長州であるが、彼らは実は江戸時代からシーパワーであったことはあまり語られていない。
 江戸幕府とは、外交顧問たるオランダの指導により、東南アジア進出が南蛮国(スペイン、ポルトガル)との対立を招くという観点から、海外進出を諦め、国内の土地配と交易の制限(鎖国)および商業取締りをエトスとしたランドパワーであった。大陸諸国のランドパワーと違うのは、薩摩長州といった反対勢力(外様大名)を体制内に残したことである。薩摩長州は関が原以降仮想敵とされ、長州藩などは120万石を大幅に削られ36万石となったが、実際の財政は石高以上に交易により潤っており、幕末には実質100万石を達成していた。薩摩藩にいたっては幕府の目を盗み琉球や種子島との貿易により潤っていた。
 反面幕府は直接支配する直轄地(天領)は約400万石で、旗本領を合わせると約700万石となり、全国の石高の約4分の1を有していたが、実際には農民は畑作(商品作物)の栽培にいそしみ、米穀の収入は激減していて屋台骨は大きく揺らいでいた。これが倒幕を可能ならしめた一つの大きな理由なのである。

 私が、ここで言いたいことは、明治以前の日本では、西日本と東日本の対立とは、常にシーパワーとランドパワーの対立、すなわち、交易力と農業生産力の闘争となるということだ。大阪は経済の中心であり、世界で最も早い17世紀の時点で手形や先物取引が行われていたという。明治維新後の中央集権体制により、そのような西日本のシーパワーは廃れたが、環太平洋連合の本質を都市間連合と考えると、その拠点は東日本より西日本におくべきだと考える。
 古代のアテネを中心としたデロス同盟や中世ドイツのリューベックを盟主とするハンザ同盟が、都市間連合であった意味を考えると、名古屋以西の都市間連合をまず樹立し、その上で東南アジアやアメリカ西海岸の諸都市と連合を組んでいくべきだ。

<参考> Japan On the Globe(251) 国際派日本人養成講座
  国柄探訪: 花のお江戸の市場経済
 日本人のDNAには過去400年以上にわたる市場経済システムの経験が組み込まれている。H14.07.28

△ 1.日本人のDNAに組み込まれた市場経済システム
アメリカがまだ植民地であった時代から、わが国には固有の先進的な市場経済システムが存在し、世界に類を見ない百万都市江戸を成立させていた・・・日本人のDNAには過去400年以上にわたる市場経済システムの経験が、しっかりと組み込まれている・・・
 鈴木浩三氏の「資本主義は江戸で生まれた」[1]は、我々の祖先が、江戸時代にいかに高度な市場経済システムを作り上げ、その上でたくましい経済活動を展開していたかを、活写している。今回は、この本を頼りに、我々自身に潜むDNAを思い出してみよう。そこに日本経済の再生のための重要なヒントが見 つかるだろう。

△ 2.天下普請のケインズ政策
 天正18(1590)年、三河や駿河を本拠地としていた徳川家康は、秀吉の命令で関東に移り、江戸に居を構えた。当時の江戸は、海岸沿いは葦原ばかり、東は荒涼とした武蔵野に続くさびしい土地だった。家康は関ヶ原の戦いで天下をとると、全国の大名に命じて、江戸城の城郭築造工事、江戸市街地や水路網建設に当たらせた。
 このように天下人が、諸大名に命じて土木・建設工事をさせるのを「天下普請」と言う。これは戦時の軍役と同じ扱いで、必要な資金・人員のいっさいを大名の石高に応じて供出させ、工事・役務を行わせるものだった。
 数年に一度命ぜられる天下普請は、大名達に巨額の財政支出を強いた。それは幕府から見れば、敵対する可能性のある諸大名の経済力をあらかじめ削いでおくという防衛的な目的があったが、同時に、軍備にあてられるかもしれない経済力を、平和な「公共工事」に向けるという意味もあった。
 また天下普請の間は大名は多くの家臣ととも江戸に滞在した。そのための大名屋敷、武家屋敷群が建設されていった。これらの建設工事が資材や労働力への巨大な需要を生みだし、さらに膨大な工事関係者の生活を支えるための食品、日用品、娯楽などの消費需要が生まれる。
 江戸時代初期の70年間、このような公共工事が集中的に江戸で行われた結果、需要が需要を生み出す形で、江戸は高度成長を続けた。これは戦後の高度成長と同様に、公共投資を呼び水にして、需要が需要を生み出すケインズ政策であった。

△ 3.参勤交代で盛り上がる消費需要
 寛永12(1635)年に、参勤交代制度が始まった。大名達は一年を江戸、一年を国もとで過ごす。これも軍役と同様に、禄高と格式に応じた供揃いを義務づけられた。供揃いとは、そのまま戦闘に移れる武装した行軍行列のことで、飲料水と薪以外は、武器・弾薬・食糧をすべて持ち歩かねばならなかった。参勤交代を含めた江戸在府に必要な経費は、大名の実収入の5,6割を占め、大きな負担となった。
 大名達は国もとの米を売り払って、貨幣を得て、それで江戸屋敷の生活費や諸経費を支払った。殿様に随行して地方からやってくる大勢の家臣団も、江戸での消費需要を盛り上げ、町人層を潤わせた。
 江戸屋敷での最大の支出は、幕府や他の大名との交際費だった。江戸屋敷に常駐した「留守居役」は、天下普請の計画をなるべく早く掴み、思わぬ案件が自藩に廻ってこないように、幕府の役人に根回ししたり、あるいは他藩と「談合」したりした。
 そのために吉原や高級料亭での接待や、書画・骨董などの贈答がさかんに行われた。こうした接待・贈答需要が、料理・服飾・工芸などの産業を発展させた。
江戸時代後半には、葛飾北斎や安藤広重などの浮世絵師が活躍し、「名所江戸百景」「東海道五十三次」などが盛んに出版された。これらは参勤交代で江戸に集まった武士たちが国元に持ち帰る土産であり、また道中のガイドブックでもあった。さらに江戸に全国から武士が集まることで、諸国の情報が集まり、また江戸の最新流行ファッションや、長唄などの新曲が地方に伝わった。

△ 4.民間による商業航路の発達
 天下普請のための石材など資材の運搬、さらに動員した家来や土木作業員の食糧供給のために水運が発達した。江戸城の石垣築造では、西国大名31家が3千艘の運搬船建造と、それによる伊豆半島からの石材輸送を命ぜられた。
 また東北の大名は、太平洋岸を南下する東回り廻船航路で、江戸まで米や資材を持船で運んだ。家康は東北大名達に命じて、慶長14(1609)年、その中継地点である銚子に港を築かせた。
 このルートによる流通が盛んになるにつれ、民間による海上輸送の方が有利となり、東回り廻船航路での定期便が確立していった。
 また江戸の消費需要が盛り上がるにつれ、日本全国から多種多様な物産が、水運で運び込まれるようになった。清酒は摂津国鴻ノ池(現在の兵庫県伊丹市あたり)の酒屋が慶長十五(1610)年に、最初に江戸に持ち込んだ。当時、江戸では濁酒しかなかったため、清酒は飛ぶように売れ、はじめは人が背負って運んでいたのが、駄馬による輸送となり、寛永(1624〜43)になると、船で運ばれるようになった。醤油も正徳年間(1711〜15)に、大阪から持ち込まれて、高級調味料としてもてはやされた。
 上方の物産を江戸に運ぶために、大阪と江戸の間の民営の定期航路が発達した。二つの組織がそれぞれの定期便を運航して、明治に入るまで、競争を続けた。また江戸時代以前に確立していた北前船(大阪と日本海経由で北海道を結ぶ)、西廻り廻船(大阪と瀬戸内、九州を結ぶ)と合わせて、日本列島全体を結ぶ民間による定期商業航路が完成した。

△ 5.変動相場制による取引
 江戸時代の通貨制度は、「東の金遣い・西の銀遣い」と言われ江戸の金貨と上方の銀貨が対等な本位貨幣として両立していた。また銅貨も少額の補助貨幣として使われていた。しかも、これらの間の交換比率は変動相場制であった。このような3貨制は、世界的にみても非常に珍しいと言われる。
 変動相場制だから、江戸の商人が上方に注文を出すには、銀相場が安い時、すなわち金高銀安の時に行うと有利だった。たとえば、現代日本の企業が国際市場で石油を調達しようとすると、石油の価格の動きと、円−ドルの交換比率の両方の変動を考えなければならない。江戸の商人たちは、すでにそういう世界にいた。
 江戸、大坂、京都には、多くの両替商が繁盛していた。貨幣の鋳造は幕府が行っており、たびたび金銀の交換比率を公定したが、ダイナミックな市場経済には幕府権力も及ばない。両替商たちは、日々の相場を見ながら、金銀の両替・売買を行った。
 相場は「立会場」で決まった。大阪・北浜にあった金相場会所では正月三が日と五節句を除いて毎日、午前10時から1〜2時間、「立会い」が開かれた。両替商達が少しでも利益を上げようと、血眼になって、取引に熱中する。立会い時間が過ぎると拍子木を打って知らせるが、取引が過熱していて終わらない時には水をかけた。これを「水入り」という。「立合い」「水入り」という相撲用語は、当時の商業用語でもあった。
 コンピュータこそないものの、取引の内容自体は、現代の通貨市場と本質的には変わらない。

△ 6.両替商の銀行業務
 両替商は、為替取引や預金・貸付け、手形取扱いなど、現代の銀行とほぼ同じ事業を行っていた。江戸−大阪−京都の三都間では本格的な為替取引が行われていた。たとえば、幕府の大阪御金蔵から江戸への公金輸送と、江戸商人から大阪商人に支払われる商品代金を相殺する形で、決済していた。
 商人は両替商に預金口座を開いて、稼いだ貨幣を預けた。現代の当座預金にあたるもので無利子だったが、信用のある両替商と取引がある事は、その商人自身の信用を高めた。両替商は取引を希望する商人がいれば、身元や財産状況を徹底的に調べてから、口座を開いた。
 両替商の中には大名に貸付けを行うものもいた。諸大名は天下普請や参勤交代で出費がかさむ一方、年貢収入は頭打ちだったため、その財政状態は窮迫していた。そこで家老や留守居役が藩主の代理人として、両替商一同を料理屋などで接待し、借金を頼む。両替商達は、その大名の信用状態によって、貸出し総額を値切ったり、時には断ったりした。また貸出しが焦げついた時の危険分散として、何人かの両替商がシンジケートを組み、貸付けを分担したりした。現代の銀行に大企業に融資するのとまったく同じである。
 大名側は地位を利用して、借金の踏み倒しを行う例も少なくなかった。肥後熊本の細川家などはその常習犯で、「細川家は前々から不埒なるお家柄にて、度々町人の借金断りこれあり」などと記録にも残っている。こういうブラックリスト情報は両替商仲間にすぐ伝わって、組織的な貸し付けボイコットや年貢を担保に求められるようになった。大名の権威も、市場経済システムの前ではかたなしだった。

△ 7.通貨政策による物価安定
 諸大名は領地でとれた米を大阪で売って銀を得ていた。大阪の米市場では需給関係から米価が決まり、その変動を見越した投機や、先物取引(将来の一定期日にあらかじめ約束した価格で商品を売買する取引)が行われていた。
 近代的な商品先物取引が本格的に成立したのは、1865年のシカゴ商品取引所だと言われているが、同所の発行する「商品取引便覧」には、「1730年代に、日本の大阪において先物取引を含む商品取引所が存在していたことは驚くべき事である」と、大阪堂島の米市場を紹介している。[2,p88]
 大名側が増収方策として米の増産に励んでも、米の供給が増えるほど米価が下がって収入は伸びない。その反面、その他の商品の物価は上がり続けた。幕府は米価の維持のために、米の買い付けを大阪の豪商に命じたり、大阪御金蔵の資金によって自ら買い付けたが、それを売りに出すとすぐにまた米価は下がってしまう。
 幕府は困って大阪の両替商たちに米価維持策を相談した。両替商達は、米が安いのは通貨の質が良すぎるのと通貨供給量が少ないためだから、貨幣供給量を増やすように、と答えている。
 この策を直接聞き入れたためかどうかは定かではないが、幕府は実際に貨幣の金や銀の含有量を下げる貨幣改鋳を行って、米価の上昇と、諸物価の安定にある程度成功した。
 現代でも円高を避けるために、政府が円売りドル買いをしたりするが、幕府の米買いによる価格維持策はそれと同じである。
 また両替商たちは、通貨の質や供給量が物価にどのような影響を及ぼすのか、すでに理解していた。通貨政策で物価の安定を図るという現代マネタリズム流の手法は、20世紀の社会主義経済での公定価格制などよりもはるかに先進的である。

△ 8.問屋株仲間は業界団体
 商品経済の発達につれて、幕府も年貢米を財政基盤とする体制から、商品流通に財源を求めた。江戸中期の老中・田沼意次は、現在の同業者団体にあたる「問屋株仲間」を公認して独占を許すとともに、その対価として冥加金、運上といった「間接税」の徴収を始めた。
 問屋株仲間は、もともと米、酒、塩、味噌、炭など、生活必需品12品目の高騰を規制するために、同業組合として幕府が結成を命じたもので、株とはその会員権をさした。田沼時代末期の大阪では130にものぼる問屋仲間が公認されていた。
 問屋株仲間に入っていない業者が勝手に商売を行った場合は、幕府に訴えれば処罰してくれた。また株仲間の一部が幕府の規制に触れる行為を行うと、株仲間全体が連座して処罰の対象となったので、そのような事態を防ぐための自治活動が行われた。
 新入りの仲間に対する厳しい選別過程はもとより、仲間の跡取りの品行をチェックして、道楽者、怠け者を排除したり、嫁取り、婿取りに対しても、全員の承認が必要だった。
 問屋株仲間は幕府の指導・統制を個々の業者に伝える「上意下達」だけでなく、業界としてのコンセンサスをとりまとめて、幕府に伝えるという「下意上達」の機関でもでもあった。これは現在の経済産業省が、業界団体を通じて間接的に各事業者を統制するという現在のやり方と同じである。ただ間接税も業界団体を通じて徴収するという点は異なる。

△ 9.四百年にわたる市場経済システムの進化
 公共投資政策としての天下普請、需要喚起策としての参勤交代、通貨政策や需給調整を通じた物価安定策、高度な物流や金融のシステム、間接税、そして業界団体による間接的な事業統制、こう見てくると江戸時代に発展した市場経済システムは、現代にそっくりである。
 明治維新後の「文明開化」が急速に進んだのも、こうした近代的な市場経済システムが、実態としてすでに江戸時代から存在してからである。経済史的に見れば、明治維新や大東亜戦争敗戦という転機にもかかわらず、江戸時代から現代まで、わが国の市場経済システムは環境変化に適応しながら、400年間に渡って連続的に進化してきたものである。このあたりはロシアや中国とは根本的に異なる。
 こう見れば、たとえば政府(官)と個々の事業者(民)の間に業界団体(公)を設けて、業界としての自治を求めるなどという日本流のやり方が、アメリカ流「グローバル・スタンダード」に欠落しているからと言って、一概に時代遅れの産物であるかのように見なすのはおかしい事が分かる。歴史の浅いアメリカの市場経済システムが、まだそこまで到達していないだけの事かもしれない。
 わずかここ10年ほどの経済の不振で、我らの父祖が400年にわたって成長させてきた市場経済システムを弊履にように投げ捨てて、「グローバル・スタンダード」に走るのは、歴史に学ばない愚か者のすることだ。市場経済システムを、どう新しい時代と環境に適応させ、その長所を強みとして発揮させていくべきか、と考えていくべきだろう。 (文責:伊勢雅臣)

◯ リンク
 a. JOG(024) 平和と環境保全のモデル社会=江戸
鉄砲を捨てた日本人は、鎖国の中で高度のリサイクル社会の建設に乗り出した。
 b. JOG(030) 江戸日本はボランティア教育大国
ボランティアのお師匠さんたちの貢献で、世界でも群を抜く教育水準を実現した。
 c. JOG(091) 平和の海の江戸システム
日本人は平和的に「自力で栄えるこの肥沃な大地」を築き上げた。
◯ 参考
 1. 鈴木浩三、「資本主義は江戸で生まれた」、日経ビジネス文庫、H14
 2. 西尾幹二他、「地球日本史 2」、産経新聞社、H10
以上 (江田島孔明、Vol.56完)


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