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◯ 世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL86
江田島孔明

 今回は、シーパワー戦略の観点から、榎本武揚の蝦夷共和国について述べたい。海洋国家である蝦夷共和国の戦略と失敗には、現代日本に与える示唆が多く含まれている。
 通商力と海運力、海軍力など国家の海洋における影響力を総合してシーパワーと定義されるが、海洋国家の要件を満たす国とは、それら強固なシーパワーを有する国を指す。即ち、通商国であると同時に先進海運国であり、海軍国(大海軍国)でもある国を海洋国家という。とりわけ、地政学から派生した概念であることから、軍事的側面からの視点がとりわけ重視されることが多い。

 海洋国家の特性として大陸の外縁部や島嶼部を故郷とし土地支配よりも交易を重視し、交易のために必要な情報を尊び、先進的、開放的性格を有し、個人的、合理的形質を備える。また、主観的革新的な陸軍中心の志向である大陸国家は対義語である。とりわけ、海洋国家として認識される国として代表的な国にアメリカ、イギリス、日本などがあげられる。

 とりわけ、今日の日本などにおいては総合安全保障のあり方を考える上で、軍事的コストを最小限化(適正化)するとともに、経済安定やエネルギー供給の安定、環境保護といった軍事・非軍事双方の視点からの国家の平和及び安定化に向けた国家戦略が問われる中で、海洋国家という指標及び概念が用いられることが多い。このような観点から、シーパワー蝦夷共和国について述べてみたい。

 蝦夷共和国は、明治元年12月(1869年1月)に成立し、蝦夷(北海道)の地に短期間存在した政権に対する呼称である。明治2年5月18日、箱館戦争終結によって消滅した。
 江戸時代後期、1867年に15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行って江戸幕府が消滅し、山岡鉄太郎の斡旋により新政府軍の大総督府参謀である西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁の勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決定する。江戸城内では恭順派と徹底抗戦派が対立しており、抗戦派の榎本武揚ら幕臣の一部は、1868年8月19日に品川沖から回天など新鋭軍艦数隻にて江戸を脱出し、会津藩へ寄り旧新選組や上野戦争で敗北した彰義隊の残党を吸収し、榎本の提案で箱館(北海道函館市)へ向かう。蝦夷地では五稜郭や松前城を本拠地に幕臣達のための開拓地とした。
 榎本らは「蝦夷共和国」と名乗ったことはなく、また独立主権国家たると宣言したわけでもない。そのためこの政権は単に箱館政権とも称される。しかし短期間にせよ日本の中央政府の実効支配が及ばない地に国家機構に準じた組織を持つ政権が建てられたこと、また、後になると「日本において初めて欧米共和政体に倣った政権が登場した」とも見なされるようになり、これらの事項が過大評価され「蝦夷共和国」と称されることが多い。

 最初に蝦夷「共和国(リパブリック)」という表現を使ったのは、実は外国人であった。1968年11月、英仏軍艦艦長に随行し、榎本と会見した英国公使館書記官アダムズである。彼が1874年に書いた著書「History of Japan」において、箱館政庁を"Republic"と紹介し、その後、アダムズの表現に倣う者が続出したのであった(下記で述べるように、彼は、公使パークスの訓令に背く形で、"Authorities De Facto"や「厳正中立」といった不用意な発言をしたのだが、その事を正当化する意図も有ったものと推測される)。
 よく、「榎本政権」は諸外国から「事実上の政権(オーソライズ・デ・ファクトー)」として認められていた、と言われているが、実際には、以下のような経緯だった。

 榎本軍が箱館を占領した後、1868年11月4日、英軍艦サトライト、仏軍艦ヴェニウスは、英公使ハリー・パークスより訓令を与えられ、英国公使館書記官アダムズを同行させて箱館に入港した。この時、弁天砲台は、両艦を歓迎する礼砲を撃ったが、両艦とも無視した。翌11月5日、現地の英仏領事と両艦の艦長が会同して打ち合わせを行ったが、英仏領事とも、この時点では榎本軍に対して高い評価を与えていた。
 やがて箱館港を管理する箱館奉行永井尚志に来てもらったが、榎本は松前に出張中であり、帰るまでしばらく待って欲しいと答えた。永井は外交経験も豊富であり、彼の態度は、英仏領事のみならず、英仏艦艦長にも好印象を与えた。その会同の最中、榎本艦隊旗艦開陽丸が、賓客の来訪を歓迎する21発の礼砲を撃った。これを見たアメリカ、ロシア、プロシアの領事は、英仏艦に行かずに開陽丸を表敬訪問した。
 11月8日、榎本は英仏領事と英仏艦艦長と会見した。英仏側の言い分は厳しかったが、公法上諒承せざるを得なかった。会談終了後、榎本は、念のためメモランダムを要求し、英仏艦艦長は諒承した。数日後、彼らは榎本に以下のような覚書を送って来た。
1.我々は、この国内問題に関しては、厳正中立の立場をとる。
2.「交戦団体」としての特権は認めない。
3.「事実上の政権 Authorities De Facto」としては認定する。
 つまり、実際には、榎本に好印象を持った出先の英仏軍艦艦長が、本国の意向を無視して勝手に書いた覚書でしか無かったのである(事前に英公使パークスが与えた訓令では、上記のような用語の使用を慎重に避けていたのにも関わらず)。アダムズ書記官が随行していながら、このような初歩のミスを犯してしまったのである。
 だが榎本は、この覚書を読むなり「これは便利な文章だ。いかようにも解釈できる」と喜んだ。彼自身は、この覚書に関しては、こう考えていた。
1.外交用語では、「局外中立」の場合だけ「厳正中立」と言い、「国内問題」の場合は「内政不干渉」と言う(つまり、「国内問題」に対して「厳正中立」などと言う事自体がおかしい)。
2.「交戦団体」とは、分離独立・政府転覆を企図した場合で、土地よこせなどの実力行使などは次元の低いもので該当しない(榎本自身は、別に日本からの「分離独立」や「新政府転覆」を企てているわけでは無いので、「交戦団体」認定を受ける必要性は無い)。

 「事実上の政権 Authorities De Facto」とは、占領を完了し、相当に安定し、ほとんど国家の体裁を具えたものを指す。今の場合、まだそこまで行っていないが、おそらくは用語不慣れと箱館の好印象のため、不用意に発した言葉であろう。
 このように、榎本武揚の外交力と当時日本最強の幕府海軍の軍事力により、蝦夷共和国は一旦は成立した。次号でその戦略と敗因について、述べたい。「事実上の政権 Authorities De Facto」とは、中国に対する台湾のような存在で、仮に箱館戦争が起きていなければ、日本は本土と蝦夷に分断され、違った近代史を歩んだということもありうる。その意味で、蝦夷共和国の戦略と失敗を考えることは有益だろう。 以上
(江田島孔明、Vol.86)



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